本当に亡き人を忘れた方がいいのなら供養はどう解釈すればいいの

今回は、ひろさちやさん著 「終活なんておやめなさい」より気になるところを取り上げてみました。

 

私もこの本を読むまでは供養と言うことに対して、一般的な方法、すなわち法事などを普通に行っていましたが、最近は供養と言うことについて懐疑的になってきました。


この本の著者は、仏さんに取って一番いいのは忘れて上げる事が一番の供養になると主張されています。詳しくは本書に譲りますが、でも先人を忘れられずに毎日、悶々とした人生を送るよりはいいのかも知れません。と、なれば仏壇も位牌も必要ないのかも知れませんね。

 

しかし、喪失体験者として確実に言えるのは6年経過した今でも、頭の何処かに思いでは住んでいると思えるほど、時として鮮明に蘇る事があるのは認めるところですよね。でも、この本でひろさちやさんは、戒名、位牌、お墓などは不要だとの意見を述べられています。故人を偲ぶことはイコールで孤独感を味わうことでしょうし、完全に頭から故人をイレースできませんよね。でも、日々の暮らしの中に忘れる日々があっても、本当はいいのかも知れないと思うようになりました。

前回も書きましたが、立ち直りも、適応も不可能であり、やはり耐えることが一番ベストな方法かなと思い始めています。

その意味で忘れる日々を少しづつ少しづつ作る瘡蓋(かさぶた)方式がやっぱり一番無理なく出来る方法だと私は思います。

 

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グリーフアドバイス 運営者 深井

 

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