大切な人と別れた時 悲しみを乗り越える方法

今回はユーチューブ動画から、悲しみの乗り越え方の仏教版を引用しています。


引用ここから

今日は岩手県北上市からお話しいたします。今回のテーマは仏教版、大切な人と別れた時悲しみを乗り越える方法というテーマでお話をいたします。大切な人と別れた時生き別れや、また死に別れということもありますが大切な人と別れた時、誰でも深い悲しみに沈んだり、中には絶望したりしてしまうこともあります。今回はその悲しみをどのように乗り越えればいいのかお話をしていきたいと思います。

 

今回の話のポイントは三つです。1番目が腐敗菌、2番目が大悲の願船、3番目が浄土で再開という順番で、お話をいたします。1番目の腐敗菌ということについてお話します。腐敗菌といいますのは、物を腐らせるものです。腐敗菌によって食べ物が腐ってしまうということがあります。食べたいと思って冷蔵庫に入れていたものがいつのまにか腐ってしまう。あー食べることができなかったと困ってしまうことがあります。

 

しかし腐敗菌によって、動物や虫の死骸、草木、落ち葉なども腐らせます。もし腐敗菌が無かったらどうでしょう、この地球上が動物や虫の死骸、草木、落ち葉などで、とても私達が生きて行けなくなってしまうのではないでしょうか。そういう点から言えば、腐敗菌というのはありがたいものであります。ちょうど忘却。私たちが忘れるというのも腐敗菌と同じようなものです。大事なことを忘れてしまって人に迷惑を掛けるのがよくないことです。これがよくよく気をつけねばならないことです。しかしどんな苦しみも悲しみもやがて忘れるということがあります。


もし人生の苦しみや悲しみをすべて覚えているとしたらどうでしょう。苦しみなあまり生きていけないんではないでしょうか。そういう点からいうと、忘れるということもありがたいものということが言えます。よく世間でも時間が薬となるといわれます。時間と共にその苦しみが癒えていく薄れていくっていうことがあります。仏教の歌に苦に病むな、憂いも辛いも流れ行くというのがあります。そんなに苦しまなくてもいいんだよ、悲しみや辛いことも時間と共に流れていく。時間が薬となって、その苦しみも癒えていくこともあるということです。


また、悲しむな夜が明ければ朝来たるという歌もあります。悲しまなくてもいいよ、夜が明ければ朝来たるいつまでも夜ということはない、必ず朝が来る
いつまでも冬ということがない、必ず春が来るいつまでも雨ということはない、必ず晴れの日が来ると、だからどんなに辛い苦しいことであっても、時間と共にその苦しみが癒えていき、やがては笑える時が来るということです。東日本大震災から今年は11年です。今年テレビを見てましたら、石巻市のある夫婦が特集されていました。


石巻市の大川小学校というのは、児童だいたい100人ぐらいだったそうなんですが、その7割70人くらいの子どもが震災で亡くなってしまったそうです。その夫婦は子どもをなくしてしまって、大変な悲しみに沈んでいました。精神がやっぱり普通ではなくなってしまって、仕事を辞めることになってしまった。とても仕事を続けることができなくなってしまった。また夫婦喧嘩が絶えなくて、離婚届を何度も突きつけるということもあったそうです。しかし時間とともにその悲しも癒えていきまして、今のこんな姿を子供が見たら喜ぶはずがないと、このままでは良くないという気持ちになっていきました。


そして奥さんも笑顔で仕事をするようになり、主人もあまり家出なかったんですが、外に出てボランティア活動もするようになりました。そして小学校に行き、子どもたちに被災体験を語るようにもなりました。震災が起きたら必ず高いところに逃げるんだよ、自分たちが子どもを失った悲しみを話まして、子どもたちに、いかに震災が恐ろしいものかということを語るようにもなりました。大切な人を亡くしますと、辛い苦しい思いを致しますが、辛い期間はあるけれども、その悲しみはいつまでも続きません。
まあ時間とともに癒えていくということであります。


2番目の大悲の願船ということについてお話したいと思います。仏教では、私たちの住んでいる世界を火宅無情の世界と言われます。これが歎異抄に書かれている言葉です。火宅無情の世界というのはどんなことかというと、火宅というのは火のついた家ということで、自分の家の屋根に火がついたような状態です。火がついたらどうでしょう。
ゆっくり朝食は食べてはおれませんし、ゆっくりテレビも見てはおれません。不安で不安で仕方ありません。火宅というのは不安を表します。


無常というのは、常がない続かないということです。私たちの住んでいる世界は、不安の絶えない無情の世界です。仏教では諸行無常と言われまして、諸行というのはすべてのものということです。無常というのは常が無い続かないということです。この世の一切のものは続かない。すべてのものは移り変わっていく。いつどうなるか分からないというのが、諸行無常ということです。私たちの住んでいる世界ば無情の世界、不安の絶えない無情な世の中であります。


だからどうかというと、会者定離(えしゃじょうり)と言われまして、会者定離というのは合うものは離れる定めにあるということです。逢うは別れの始めなりと言われますが、出会ったということは、必ず別れの時がやってきます。いつまでも一緒にいるというようなことはありません、無情な世の中ですから、必ず生き別れということもあるでしょうし、死に分かれということがあります。四苦八苦の中に、愛別離苦という苦しみがありまして、愛別離苦というのは愛しているものと別れる苦しみということです。


これは、愛していればいるほど、大切な人ほど、別れたときの苦しみは大きくなります。そんなに愛していないと、そんなに大事な人ではないとなると、お別れたときは苦しいんですけれども、その苦しみもそんなに大きなものではなくなります。でも大事な人ほど、その人と別れたのならばその悲しみは大きなものとなります。心にポッカリと穴が開いてしまう。何かやる気がなくなってしまう、もう立ち上がれなくなってしまうということもあります。


親鸞聖人は私たちの人生を難度海と海に例えて教えられています。難度海というのは、度というのは、さんずいをつければ渡るということで、渡ることが難しい海ということです。人生には苦しみの波が次から次へとやってきます。一つの苦しみを乗り越えたと思ったら、また次の苦しみがやってくる、苦しみの絶えない人生を、荒波の絶えない海に例えて難度海とおっしゃっています。しかし親鸞聖人は私たちは決して、苦しむために生まれてきたのではないし、苦しむために生きているのではない。人生には苦しみは絶えないんですけれども、どんなに苦しくても諦め無いでね。


この難度海を明るく楽しく渡す大きな船があるんだということを親鸞聖人は教えられ
ました。難度海を度する大船あり、その大船を教えられたものが仏教です。苦しみの人生を明るく楽しく渡す大船、これをまた大悲の願船と言います。難度海で苦しむ私たちを助けてやりたいという仏様の大慈悲の願いによって、造られた船であります。ではこの大悲の願船に、いつ乗せていただけるのかというと、死んでからではありません。生きている現在、只今です。そのことを親鸞聖人は平生業成(へいぜいごうじょう)と言われました。このように書いて平生業成と言えます。平成というのは、死んでからではない生きている現在只今ということです。


業というのは、事業の業の字を書いて仏教では業(ごう)と言います。業といいますのは、これは人生の大事業のことです。言い換えすと人生の目的ということです。何のために生まれてきたのか、何のために生きているのか、どんなに苦しいことがあっても
生きるのはなぜか。私たちにとってこれほど大事なことがありません。では、その人生の目的とは何かというと、大悲の願船に乗せて頂くことなんだよ。大悲の願船に乗せて頂いたのならば、無上の幸福になれるんだよ。この上ない最高の幸せになれる。どんなことがあっても、崩れない、変わらない、未来永遠の幸せになれる。


大悲の願船乗せて頂いて、この無上の幸福になることが生きる目的なんだと教え
られました。最後の成というのは達成する完成するということです。ですから平生業成というのは、人生にはコレ一つ果たさねばならないという大事な目的がある。それは生きている現在只今、この大船に乗せて頂いて、無上の幸福になることである。死んでからではない、生きている現在只今願船に乗せていただけるんだよ。だから皆さん早く、この願船に乗って無上の幸福に成って下さいよと、教えられたのが親鸞聖人ですから、親鸞聖人の教えを平生業成と言われます。


そしてこの大悲の願船というのは、止まっている船ではありません。どこに向かう船なのかといいますと、極楽浄土へと向かう船であります。この願船に乗せていただいたとき、人間に生まれてきて良かった、生きてきてよかった、この身になるための人生だったのかと、喜ぶことができます。そして今までのどんなに辛い悲しい過去の出来事であったとしても、意味を持ち、感謝へと変わります。辛い苦しいことはあったけれども、
辛い苦しいことがあったからこそ、仏教を聞いてこの願船に乗せていただくことができたんだと、どんなに辛い過去も意味を持ち、感謝へと変わるのであります。

 

では3番目の浄土で再開ということについてお話しいたします。歎異抄の第5章にはちょっと難しい内容になりますが、次のように書かれています。浄土の悟りを開きなば、六道四生の間、いずれの業苦にしずめりとも、神通方便をもって、まず有縁を度すべきなり。とあります。どんな意味なのか簡単にお話しいたしますと、大悲の願船に乗せていただき、死んで浄土に仏の悟りを開けば、どんな苦しみの世界に沈んでいても、仏の力で、縁のある人を助けることができるだろうと、おっしゃった親鸞聖人のお言葉です。

 

大悲の願船に乗せて頂けば、極楽浄土に行って仏の悟りを開くことができる仏になることができます。仏になったのならば、もう苦しんでいる人を助けずには居れなくなります。仏の力、これを神通力とか、方便力とか言われますが、仏の力で縁のある人を助けることができるだろうとおっしゃった、親鸞聖人のお言葉です。ですから苦しむ人を助けたいと、助けてやりたいと思うのならば、まず自分が仏教を聞いて大悲の願船に乗せて頂くことが大事。これが最優先であります。


大悲の願船に乗せて頂けば、浄土の仏の悟りを開いて、どんな苦しみの世界に沈んでいる人でも、仏の力で助けることができるだろうとおっしゃっています。親鸞聖人の御師匠様が法然上人でありました。親鸞聖人と法然上人は29歳の時にお会いいたしまして、親鸞聖人は法然上人から大悲の願船があることを教えて頂き無上の幸福になられました。親鸞聖人と法然上人が一緒におられたのはわずか6年間。35歳のときには、まあ権力者の弾圧を受けて、親鸞聖人は越後へ、法然上人は土佐四国へと別れることになりました。


突然の別れを悲しまれた親鸞聖人の歌です。会者定離ありとはかねてききしかど、昨日今日とは思はざりけり。会者定離というのは、会うものは離れる定めにあるという仏教の言葉です。会者定離ということは、以前から聞いていたけれど、親鸞聖人は、仏教学んでおられた方ですから、当然会者定離という言葉は知っていました。だけれども、昨日今日とは思はざりけり。まさかその法然上人との別れが、昨日今日とは思わなかった。悲しまれています。


親鸞聖人にとって最も尊敬する人が法然上人。親鸞聖人にとって一番大事な人は法然上人でありました。その法然上人との別れですから、大変な悲しみにありました。でもそれに対して法然上人はどのように返されているのかというと、歌で返されています。別れ路の、さのみ嘆くな法の友、また逢う国のありと思えば。これで別れることになるけれども、そんなに嘆かなくてもいい、悲しまなくてもいいんだよと。法の友、仏法の友よと。また逢う国のありと思えばまた会うことができるじゃないかと、また逢う国があるではないかと、励まされています。


親鸞聖人と法然上人は35歳で別れられまして、そしてその後は、5年後に親鸞聖人はまた法然上人にお会いしたいとこう京都に戻ろうとされた、だけれどもその途中で法然上人が亡くなられたことを聞かれまして、会われるということはありませんでした。
じゃあまた逢う国っていうのはどこのことなのかといいますと、これは極楽浄土のことです。また極楽浄土で再開できるでないかと、法然上人はおっしゃいました。親鸞聖人は29歳の時に、大悲の願船に乗って無上の幸福になられた。


法然上人は43歳の時に大悲の願船に乗られた。共に大悲の願船に乗られていましたから、死ねば浄土に行くことがはっきりされていました。だから今生は、これが最後の別れになるかもしれない。だけれども、また極楽浄土で再開できるんじゃないかと、そんなに悲しんでくれるなとおっしゃった法然上人のお言葉であります。大切な人との別れは人生の大きな悲しみであります。しかし仏教は、苦しみの人生を明るく渡す大船を教えられています。その大船に乗せいただいたのならば、浄土で仏の悟りを開き、苦しむ人を助けずにおれなくなります。


一日も早く、この大悲の願船に乗せていただけるよう真剣に仏教を聞かせていただきたいと思います。いう仏教の話をユーチューブで、続けて配信をしておりますので、関心のある方は、是非チャンネル登録をしていただければと思います。北上も影響は曇りではありましたけども、暖かい天気でありました。暖かい日が続くようになりましたけれども、体調など崩されぬ様にまたお体くれぐれもお気を付けください。ご視聴ありがとうございました。

引用ここまで

如何でしたか、仏教で言う大悲の願船に乗る事が、大切な人と別れた時、悲しみを乗り越える唯一の方法と考えるのも、非常に説得力がありますね。参考にして頂けましたでしょうか。グリーフアドバイスでは、この動画のリンクを貼ってありますので、ご覧頂ければと思います。グリーフアドバイス 運営者 深井